震災後、静岡県のボランティアは大槌町を中心に入りました。はじめに大槌町についてお聞かせください。

津波により「はまゆり」という大きな船が建物の屋上に取り残されていた写真がメディアで流れましたが、そこが大槌町です。それほど津波の力が強かったということです。津波のモニュメントとして残そうという話もありましたが、現在は撤去されています。津波のことを思い出したくない、という声がありました。

大槌町は津波の他に火災が発生しました。津波で流されたプロパンガスが発火し、家や山に火が移ったといわれています。街が津波にさらわれ、JRの線路も流されました。大槌川の中には鉄橋の橋脚だけが残っています。震災1カ月後の街の中には、いたるところ瓦礫の山ができていました。 大槌町は街の中心に役場がありました。地震直後、役場で対策会議を開いているところを津波が襲いました。町長さんを始め、多くの役場職員が亡くなりました。行政が大きな被害を受けたという点では岩手県の中の大きな被災地の一つです。

震災後500日の大槌町の様子

まだ街の中には瓦礫が残っています。街はほとんど(津波被災時の火災で)焼けたままです。街の中のJRの線路も大槌駅も流されています。役場の建物はコンクリート造りだったので残ってはいますが…。大槌川を上ったところにあった県立大槌病院も建物は残っています。吉里吉里地区の小・中学校は高台にあったので、津波の被害は免れました。

地盤沈下はあったのですが、今は海水は引いています。海岸線はもとに戻っていますが、防潮堤のコンクリートは壊れて倒れたままです。震災以前の街の地図と見比べながらでないと何が何処にあったのか分からない状況です。高台の城跡公園にのぼれば町の様子が一望できます。

大槌町の学校のこと

大槌町は大槌湾と船越湾の2つの湾に面した2つの地区に分かれています。北側の船越湾に面しているのが吉里吉里地区で、小学校と中学校が一つずつあります。「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった蓬莱島という小さな島がある大槌湾に面した大槌地区には、中学校1校と小学校4校ありましたが、すべて被災して使えなくなりました。今、この5つの学校は運動公園のサッカー場に建てられたプレハブの校舎に入っています。2013年4月より4つの小学校は統合の予定です。

大震災以降大槌町の小学生の25%が減りました。亡くなった子ども数人いますが、親の転居によるものです。最初は避難所などで生活をしていましたが、隣の遠野市や内陸の方に生活の基盤を求めて転居する子どもが相次ぎました。仮設住宅ができたとき、戻ってきた子どももいましたが、生活の見通しが立たないということで、仮設住宅ができた頃に引っ越した(転出した)人もいました。

学校統合のことが話されましたが、もともと統合するような小規模の学校だったんでしょうか?

大槌町は15,000人ほどの町でした。町のほとんどは山で海岸近くに漁業を中心として集落が広がっています。大槌地区には、大槌小(児童数196人)、大槌北小(児童数186人)、赤浜小(児童数18人)、安渡小(児童数34人)がありました。現在小学校4校はプレハブの校舎に一緒に入っています。安渡小と赤浜小には複式学級があります。小規模校といえば小規模校ですが、岩手県にはこのような規模の学校は普通にあります。

岩手県教組としては、学校の統合について積極的に賛成する立場ではありませんが、一度津波が押し寄せた場所に学校を再建するということもできないことです。プレハブ校舎を作る場所についても、大槌小は津波に襲われているし、高台にあった大槌北小にも津波が押し寄せています。そこで、街の中心から離れてはいますが、現在、総合運動場になっている小槌小(現在は廃校)があった場所にプレハブの校舎を建てました。学校が統合されれば、校区が広がり通学はバスということになります。遠い子どもは5㎞くらいでしょうか。

岩手県全体としては学校関係の復旧の状況はいかがですか?

今年4月時点で、震災により使用不能になった学校数は、小学校が14校、中学校が11校、高校が2校です。そのうち、もとの校舎で授業が再開できたのは小学校1校と中学校2校です。他校に間借りをしている学校が小学校4校、中学校4校、高校1校です。廃校になった校舎を借りたり企業の施設を借りたりして授業を再開した学校が小中各1校あります。仮設校舎(プレハブ校舎)で授業を始めている学校が小学校7校、中学校4校です。大槌の4小学校と1中学校も含まれています。他校と統合再編した学校は小学校2校です。この2校は震災以前から統合の話が進められていました。

校舎の被害はなかったけれど、校庭に仮設住宅が建てられたため運動場が使えず体育の授業や部活ができないという学校もあり、運動不足が心配されます。運動不足については震災以後、(通学路の未整備などにより)通学がバスになった子どももいます。

校舎を間借りして学校を再開したところも問題を抱えています。校舎、校庭とも過密になり、どちらの生徒もストレスを抱えています。被災した学校をどこに建てるかという議論の結論を待たず、急遽プレハブ校舎を建て7月末に引っ越しをした中学校があります。本格的な校舎の建設は2016年をめざすということなので、あと4年はプレハブ校舎で過ごすことになります。

教室の設備や備品・教材などの支援はどうだったでしょう?

震災後半年ほどで、学習に必要なものはほとんど揃いました。例えば図書を贈りたいという善意が全国からありましたし、ランドセルがいっぱい届きました。ものについては全国から様々なものが届けられたので足りています。企業からも大量のものが届きました。しかし、蠅取り紙や網戸などちょっとしたものが足りないということがありました。

震災直後、避難所に紙おむつなどが大量に届けられましたが、必要なサイズごとに仕分けする人がいないということがありました。飲料水にしても2Lのペットボトルよりも500MLのサイズで欲しかったという声がありました。

学校へのボランティアの受け入れについてはどうですか?

昨年の夏、日教組からボランティアを学校に派遣することが提案されました。学校にその旨を伝えると、図書の整理とかプールの監視などをお願いしたいということでした。子どもの学習に直接かかわらない活動ですが、日教組には「被災地の先生に休んでもらうために(学校に)ボランティアに入っていただく」ということでお願いしました。学校の先生は教室での指導にそれぞれ計画をもっていますから、そこにボランティアとして入っていくことは難しい面があります。

教員を始め、被災地の人たちは本当に忙しかった。人手が足りないということに加え、空間が足りないということも精神的に苦しかったように思います。家に帰っても仮設住宅ですし、学校にも(複数の学校が同居したり、校庭に仮設住宅が建っていたりして)人がいっぱいいます。心が安まる場(空間)がないということです。普通に戻りたいとか、ゆっくりとしたいとかいう希望は被災者だけでなく教員ももっています。

震災により教職員と子どもと学校の間でどのようなことが問題になりましたか?

教職員の人事異動

震災の当日(3月11日)午後1時に県職員の人事異動の内示がありました。次の週になって県教委から「教員の人事異動を止めたい」という話がありました。理由は「教職員の安否を確認するのにも10日も時間がかかっている。被災地の子どもたちの安否の確認ができない状況で人事異動を行うことができない。新しい先生が新しいところに赴いても十分な対応ができない」ということでした。岩手県教組は県教委の申し入れを了承しました。結果、沿岸部の教員の人事異動は凍結されました。しかし、知事部局の異動は行われたので事務職員は動きました。

子どもと教員の移動

1年間の凍結のあと2011年度末の人事異動は実施されました。沿岸部の被災した学校に異動してきた教員は、被災当時の様子が分からないということがあります。また、内陸部の学校でも被災地から転校してきた子どもに津波の話をしてもいいのか、作文を書かせてもいいのか、といったことなど、どう対応していいか分からないということがありました。子どもの転校もあったし、教員の異動もあった。その中で、子どもとどう接したらいいのかということが課題です。

放射能汚染の問題

原発事故による放射能汚染の問題もあります。文科省の基準で、毎時0.23マイクロシーベルトあるところは除染の対象になります。そういう場所は岩手県にも幾つかあります。当該の地区(市)ではこの夏までには除染を完了しようと作業をすすめています。学校給食中に含まれる放射性セシウムを測定するための機械(簡易ベクレル計)を購入し、食材に対する注意をはらっています。放射能汚染対策については、風評被害の問題やいじめの問題が絡んでくることもあるので、きめ細かな目配りが必要だと考えています。

家族など身近な人をなくした子どもも多いと思います。震災後の子どもたちのストレスにどう向き合ってきたのでしょうか?

震災後も余震が続いています。余震があると子どもたちから「先生、テレビ、テレビ」という声があがります。テレビを点けると「先生、津波来る?」と聞きます。子どもたちは思い出すのですね。私たちも余震があるとテレビを点け、震源地や津波の危険についての確認をします。

家族や肉親の死と向き合うつらさ

今回の震災で岩手県内で亡くなった小学生は21人です。学校にいた子どもたちは全部守りきったのですが、当日欠席した子どもや保護者と一緒に下校する途中の子どもが波にのまれました。中学生は15人が亡くなり、教職員は2人亡くなりました。小中学生の保護者で亡くなった方は273人です。県教委は保護者を失った子どもたちのために「岩手学び希望基金」をつくりました。親をなくした子どもたちの就学を支援しようとするもので、岩手県教組も日教組からいただいた義捐金を出しました。

肉親が亡くなったことを認めることができないことがあります。半年以上経っていても、父親が「お母さんを探しにいこう」といって週末に子どもと母親を探しに行くこともありました。まだ、葬式を出していない家もあります。震災後半年くらいまでは「葬式はやるものではない」といった感じでした。遺体が発見された遺族に「お前のところは見つかっていいよな」といった感情もありました。1年以上経ち、やっと葬式をやることができるようになりましたが、まだ気持ちの整理がつかない方もいます。毎月11日の一斉捜索に参加し続けている家族もいます。遺族の感情はそういうものだと知りました。

死をどう捉えていいか分からない子どもたちに、教員も、死をどう話していいか分からないということがあります。火事や地震ならそこを探せば何かが残っているわけですが、津波は一切をさらってしまいましたから、跡形もなくなってしまう。

一かけらでもいいから(亡くなったという)証拠を見つけたい、それをもって「諦める」という感情の中に子どもたちもいると思います。子どもたちにどう対応するかということは、ケースバイケースです。

お話を聞いて、目の前のことだけでなく、子どもがこれから生きていくという長い目で支援を考えなくてはならないと感じました。子どもたちがこれから生きていくうえでどのような支援が大切だと感じていますか?

支援をする側とされる側、善意を巡る気持ちのズレ

支援を受けたことを忘れてはならないと思います。その上で言います。例えば日曜日に著名人のコンサートを自由に見る分にはいいのですが、授業日に揃って見に行くのは「なんか疲れる」という声があります。慈善の催しに参加を強制されることに対する違和感ということでしょう。

いろいろなところからいろいろなものが届きました。贈ってくださる方は善意ですが、子どもたちへの指導ということでは考えてしまうこともあります。贈り主から「作文を書いてほしい」ということもありました。支援に対するお礼の作文ですね。現場からは「子どもに作文を書かせるのはいかがなものか」「(礼状を)子どもに書けとは言えない」という声がありました。被災地に電子ピアノが10数台寄付されました。寄付してくれた自治体から「市長や議員さんが寄付を受けた学校に視察に行くので、音楽の授業をやって欲しい」という依頼があります。「そういうことなら寄付を受けなくてもよかった」ということになります。「物をもらっていて何を文句言っているんだ」ということではないのですが…。

被災地の教員としては、子どもたちがものを貰ったり、サービスを受けたりすることに慣れてしまうことが怖いように思います。

支援をする方も、「何かできることはありませんか」という善意から出たものですし、支援を通してそこには何らかの交流が生まれるわけですが。それがあまりにもたくさん、いろいろなところからあると授業どころではなくなってしまいます。

8月に福島県の子どもたちが岩手に来て山で遊ぶ計画があります。中学校の生活指導を勉強した先生が世話をしますが、(福島から子どもたちに)ついてくる先生方はお疲れだと思います。なるべくこちらで対応し、福島の先生には休んでいただこうと思っています。福島の先生にすれば「ついて行ってよかった」になるのか「疲れた」になるのか分かりませんが…。

自立を助ける支援を:必要なものは時間とともに変わります

支援のかたちは相手によって色々ですし、相手が何を要求しているのか、どう自立していくのかということをきちんと見極めないと支援にならないと思います。被災地支援は、ちょっとお手伝いして自立を助けるといった方向でやってほしいと思います。

震災直後は水がなかった。紙もなかった。学習道具もなかった。だからものが届けられたのは本当に助かった。そのことによって日常の学習活動を取り戻すことができたのですが、今、どっとノートや鉛筆が届けられたりしたら「えっ」と思います。

被災地に本が届けられます。水を被った被災地の本屋さんは何とか仮店舗をつくって商売を再開しようとしています。そこに支援物資の本が溢れたら…。本よりも図書カードなどを送っていただいた方が現地は助かるのに…、と思いました。いつ、どのタイミングで、何をするかということは現地の要求に沿ったものでないと「いらないお節介」になってしまいます。

静岡でも東南海地震などの発生が心配されています。東日本大震災では学校が避難所になったと聞いていますが、避難所としての学校の役割というものについてどのように考えますか?

避難所としての学校は、初期の段階では「名ばかりの避難所」といった状況でした。地震や津波に対する避難所として対応できるのは、せいぜい4・5時間です。1日あるいは数日、それ以上の避難を続けるということが想定されていなかった。津波や地震から緊急避難しておさまったら家に戻るということだったのではないでしょうか。

3月11日は寒かった。ストーブなどの暖房設備もないし、教室のカーテンをはずして体に巻いて寒さを凌いだり、理科室から実験用の小さなローソクをもってきたりしてそれを明かりにしました。情報もない、食糧もない、水もない、外部との連絡手段もない状況で外からの支援を待っていました。

学校を避難所として指定するときには、避難所としての機能をどのように考えるのか、2次・3次の避難所とのつながりなどを明確にしておくことが必要だと思います。避難した人が救助を待つ間に必要なものを備えておくほか、情報収集や外部との情報伝達などのシステムの確保も非常に重要だと思いました。

今回の震災の経験から、災害時の情報把握についてどのように考えますか?

災害発生時の情報把握

津波については正確な予知情報とそれを地域の人が共有していることが大事だと思います。今回の地震で津波警報が出されたとき、「おじいさんから聞いた津波の様子を見に行こう」と海を見に行った人もいます。また、一旦避難したが、預金通帳や先祖の位牌などを取りに戻り(津波の)第2波にのみこまれた人もいます。

今どのようなことが起こっているか、これからどのようなことが起こるのかといったことについて、きちんとした情報を伝えることが大切だと感じました。揺れはおさまったが津波はくるのかどうか、その津波の高さはどの程度が予想されるかなどについてです。また、地震と津波に襲われた人は、どこで火事が起きているのかなど身の回りで何が起きているのかの情報を得ることができませんでした。情報を伝える手段は地域の防災無線などが考えられていたのですが…。

その後の情報把握

地震の時、私は盛岡の教育会館にいました。停電したので携帯ラジオが情報源でした。津波の高さは4・5mといったことが放送されていました。津波の高さを測定する波高計が振り切れたためそれ以上の津波の高さを測ることができなかったわけです。そのうち、仙台の閖上(ゆりあげ)地区で死者が出た模様といった放送がありました。

盛岡市の教育会館内に対策本部を立ち上げたのですが、電話、携帯電話が機能せず、情報収集に非常に苦労しました。どこがどれだけの被害を被ったのか被害状況をつかむため、車を出して現地に向かい、それぞれが集めた情報を摺り合わせて被害の状況の把握をしました。教職員名簿をもとに教員の安否確認も同時に行いましたが、年度当初に作った名簿ですから非正規の教職員については(その後の異動があり)正確な把握に手間取りました。また休職者等については帰省先と思われる場所に連絡をとり、一人一人生きているということを確認しました。特に津波被害の大きかった陸前高田市と大槌町は、教育委員会の被害も大きかったので県教委と連携しながら子どもと教職員の安否確認をしました。

パニックは情報が正しいかどうか判断できないと回避できません。情報の精査が必要でした。その情報は「いつ、誰からの情報か」ということを確認しながら、それをもとに何をしなくてはならないかを判断しましたが、すごく難しいことでした。

被災地の組合員からの情報

携帯電話もつながりが悪く、沿岸部の先生が峠までのぼって来てやっとつながった携帯電話で「○○学校ですが、子どもの安否については…、教職員の安否については…」といった情報を県教組の対策本部に情報を伝えてくれました。

静岡でも避難訓練を定期的に行い、校舎の耐震工事などもすすんでいます。避難訓練では、避難後速やかに保護者に子どもを引き渡すということも訓練の対象としていますが、保護者に引き渡したあとに津波被害にあったとお聞きしました。最後に、学校として行う避難について感じていることをうかがいたい。

沿岸部では学校は高台につくられていることが多いのではないでしょうか。子どもを保護者に引き渡すだけでなく「お母さんも一緒に(学校に)避難しましょう」という学校もあります。避難所も一つではなくて第1避難所、第2避難所と少しずつ高いところに設けることも考えられています。津波からの避難で活躍した人は地元で生活してきた人たちだったといわれています。

「ひどい揺れだったからすごい津波がくるぞ」という地元の人の感覚が「ここでは駄目だ、もっと高いところに逃げろ」という指示になりました。

学校が避難所になって、避難所運営の組織の作り方は先生方がうまいと思いました。様々な人が避難してきたときに、赤ちゃんのいる人を一つの部屋にまとめるとか、先生方が避難所を仕切ったようです。さすが、子どもを扱い慣れ、集団を動かす力をもっているのでしょう。そのために、教職員が避難所運営から抜けられなかったことにもなりましたが。

予定時間を超えて、貴重なお話をたくさんいただきました。ありがとうございました。